びしゃびしゃと水溜りにはまる音、ゴミ箱を蹴散らし躓く音、あわただしい足音が路地の静寂を乱す。
 
「はっ、はっ、くっ―――はっ」

 時刻は深夜―――激しく息を乱し、必死の形相で走る男が居た。

「どうして―――どうして俺が逃げなきゃならないんだ!」

 最早頭の中は滅茶苦茶だ。

 自宅に向けて走っているかも怪しいような路地を、男はしきりに後ろを振り返りながら、安全な場所へ向けて駆ける。

「はっ、はっ、―――ぅ」

 死神にでも取り付かれたのか、走るその姿は鬼気迫るものがあった。

「はっ、はっ、ぐ―――は、はっ」

 ―――もう何年も走ってはいない。

 こみ上げる吐き気をこらえているためか、顔から血の気が引いている。

 だが、それでも男は立ち止まる事が出来なかった。

「く、くそ―――!」

 後ろを振り返る。見えるようなところに追跡者の影は無い。

 ―――だが追ってきている。

 それだけは間違い無かった。もつれそうになる足を、必死に動かして逃げる―――

 

 

 

 

 ようやく男がアパートメントに着いたときには、両足は痙攣しながら不服を叫んでいた。

「く―――げ、ぅ」

 気持ちが悪い、吐きそうだ。

 それでも、殺されるよりはましだろう。痙攣する内臓を宥めながら、ドアの鍵を開ける。

 ほとんど這いずりながら部屋に転がり込むと、震える手を押さえながら相方に電話をかけた。

 苛立ちを助長するように、無機質な呼び出し音が続く。

「No―――shit! どうして出ない!」

(……まさか、もう?)

 脳裏に男の影がよぎる、暗い眼をした男だった。

 まだ若い、そう思った第一印象すら薄れる目つきだった。

 吐き気を堪えながら震える膝で必死に立ち続ける、二十数回の呼び出し音の後、ようやく相手の声が聞こえた。

『Yes? なんだよボビー、こんな夜更けにどうした?』

「サム! おおジーザス……まにあったか!」

『おいおい、どうしたってんだよ?』

 回線は直通だ。

 相手の寝ぼけた声にいらだちながらも、ボビーはそれを押しとどめて言葉を続ける。

「いいかサム、何も聞くな、聞かないで良いから今すぐ其処から逃げるんだ」

『はぁ?』

「預金通帳も金貨も女房も餓鬼も全部置いていけ、いいか、全部だぞ!」

『おいおいボビー、いきなり何を言ってるんだ……』

「ああもう! 時間が無いんだクソッタレ! 早く其処から―――ウッ!」
                          バンッ、ビシャッ! ごとっ。
 ―――爆ぜる様な音、水が飛び散る音。

 思わず受話器のこちら側でも目を閉じる凄惨な光景。

 それから―――どしゃ、と、何か重たい物が倒れる音がした。

「……サム?」

 ―――返事は無い。

 ただ―――びしゃ、びしゃ―――と断続的に何かが吹き出るような音がする。

 がたがたと、先ほどよりも激しく男の膝が震えだした。

「おいおい……はは、冗談だろ? 悪ふざけはやめろよ? Hey サム? hey!!」

 ごと、と、もう一度受話器が持ち上げられる音がした。

「ああ、よかった、サム、いいか? もう一度しか言わない―――」

 歯の根が合わない。

 ボビーには既に解っていた。電話の向こう側に居るのが誰なのか―――それでも、ソレを信じるわけにはいかなかった。

 いつしか膝は崩れ、床には彼が漏らした小便で水溜りが出来ている。

 悪臭のプールにつかりながら、ボビーは哀願するように首を横に振りながら涙を流した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『ボブ・マッコイ―――だな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞きなれた声ではない。

 どちらかといえば、聞いた事の無い類の声。まるで鉄で出来た様な声だと思った。

「ち、ちが、違う、そんな奴は知らない!」

 無様に小便の中をもがきながら悲鳴を上げる。

 受話器を放せばよい。そう思い、床に放り出した。

 落ちた受話器からは、間の抜けた電子音だけが響いている。

 男の声は―――もう無い。

「ひ、―――ひ、ぃ」

 だが、来ている。もうすぐ近くに来ている。

 サムと彼の関係を知っているのは本人達のみだ、名前どころか家まで知られているなら、逃げ場など無い。

(畜生! やっちまった……)

 居場所がばれた。

 窓には近づけない。ドアも駄目だ。いつ撃たれるか判らない。

 そんな時、本当に唐突に玄関のドアが開いた。

「ひ、ぎぃいいい!?」

「ボビー!?」

 ―――女の声だ。

 硬く閉じた瞼を、そっと持ち上げる。其処に居たのは―――

「ジェシー……?」

 ―――其処に居たのは、自分の愛人だった。

「驚かせやがって」

「なによ、驚いたのはこっちよ。―――どうしたの、そんなにひどいカッコで?」

 ジェシーはボビーの姿を見下ろすと、とりあえず風呂に行けば? と、冷たく言い放った。

 もっともだ。そう思いながらも、男は動けない。腰が抜けているのだ。

「情け無いね、どうしたの?」

「う、うるさい、お前には関係ない!」 

 ふーん、そう。と、彼女は居間に向かう。

 やれやれ、今はまだ生きている。そう思いながら、男はバスルームに向かった。

 

 ―――シャワーを浴びる。

 掻いた汗と漏らした小便が鼻につく、臭いだけでもとにかく洗い流したかった。

 ぬるい湯が、脚の疲れも何処かへさらって行く。

「Ha―――」

 まるでこうしていると、今まであせっていた事がパルプフィクションの様だ。

 明日になればまたアイツが居て―――そんな事は無いと知っているのに。

 緊張が緩んで、眠りたくなった。

 だが、まだ早い。とにかく此処を離れなければ―――

「ねぇボビー?」

「何?」

「アンタ宛に荷物が届いてるわよ!」

「あけてみてくれ!」

「いいの?」

「ああ!」

 体を拭い、バスローブを纏って居間に戻る。

「何が入ってた?」

「変ね、手紙だけ」

「何?」

 手渡された箱には、一通の手紙が収められている。

「んー?」

 不審に思いながらも、何時もの調子で女の手からやけに重たいソレを受け取った。

 どうやら封筒らしい、箱からソレを外そうと思ったが、なかなか外れない。

「チ―――どうなってやがる」

 ふと、思い立って宛名を聞いてみた。

「誰からだって?」

「えーっと、キルトゥグ・エミア?」

「誰だソレ?」

 キン、と、金属質の音を立てて、手紙が外れた。

「は、梃子摺らせやがっ―――て?」

 いったい何で止めていたのかと裏側を見る。

 なにか、丸い金属の輪と、ソレに繋がる―――

 


「あ、違うね、これJapの名前だわ、キリツグ・エミヤって知り合い?」

 


 ―――何だって?

 箱を取り落とす。床に当たると、ごと、と妙に重たい音がする。

 冷たい汗を意識しながら、中身を見た。

 


「―――Oh my god……」

 


 ―――良い死を。

 ふざけた手紙には、そんなふざけた事が書いてあって―――

 ごろごろと床を転がる三つの手榴弾。

 それが、ボブ・マッコイの見た最後の光景になった。

 

 

 

 

 2kmほど離れたビルの上から、男は立ち上る爆炎を見つめていた。

「……変だな」

 手榴弾程度ではあれほどの威力は無い。ガスに引火でもしたのか―――

「……まあ、いいか」

 爆発の規模自体には何の感慨も無い、男はジャケットの襟を直すと踵を返した。

 事務所に戻る。椅子に座った時、電話が鳴った。

「Hello?」

『―――もしもし、僕だ』

「終ったみたいだな、こっちからも見えたよ」

 向こう側に居る相手には見えないだろうが、ジェスチャーを交えて男は喋る。

「使った物は何だ? 手榴弾じゃないのか?」

『ああ』

「ならあの火力も納得だ―――これで終わりか?」

『ああ、終った。二人とも始末したよ』

「OK……ええと、協会から次の話が来てるぞ」

『次が来ているのか? ずいぶんと早い―――まあ、いいか』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


                        『A good & bad day.』
                         Presented by dora

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1/

 ナタリー・オールドマンがその男を初めて見たのは、良く晴れた昼下がりだった。

 男は公園のベンチで何をするでもなく、ぼーっとしながら鳩に餌をやっていた。

 じゃれる子供に気弱に微笑みながら話しかけている。周りに居る子供たちの母親が何も言わないのが、印象に残る光景だった。

(ずいぶんと若いホームレス)

 最初の印象は、それだけだった。

 


 二度目―――男はナタリーのアパートから出てきた。

 知人でも居るのだろうか、そう思いながら入れ替わりにエレベーターに乗ろうと―――

「う、うわ!?」

「Ah―――」

 ―――エレベーターの乗ろうとした時、彼女の持つ傘が男のコートの襟に引っかかった。

 買いたての傘を、紙袋に入れて持っていたのが拙かったのか。男は見事に後ろに転がると、ごち、と鈍い音を床で立てた。

「あ、痛たた」

「……大丈夫?」

 屈み込んで男を伺う。無論、ある程度の距離はとった。

「―――あ、はは、大丈夫です」

 男は笑いながら立ち上がろうとし、見事にコートのすそを踏んづけて転んだ。

「あ痛!」

 転んだ拍子に鼻先をぶつけたのか、男の鼻は見事に赤くなっていた。

 痛がるその表情がコミカルで、ナタリーはつい、笑ってしまった。

「……ひどいな、笑うなんて」

 そう言いながらも男は笑顔だった。

 爽やかさが漂う笑顔だ、好感が持てる。

 ナタリーはそう思った。

 そうしてもう一度、今度はこちらを見たまま出て行こうとして―――開いたままの開き戸に頭をぶつけた。

「痛い!?」

「ぷっ―――あははは!」

 まるでコメディアンみたい。かすかに漂うひょうきんさが、その思いに拍車をかける。

「これ、あげるわ」

「え?」

 ハンカチを男に差し出した。

 男はそれを、ぼうっとしながら受け取ると。戸惑ったように微笑を浮かべた。

「返さなくていいから、笑ったお詫びよ」

「ああ、ありがとう」

 そういうと男は鼻先にソレを当てる。

 微笑みながらソレを見て、エレベーターのボタンを押す。挨拶だけでもしようと思って振り返り―――

「―――あら?」

 ―――其処に、もう誰も居ない事に驚いた。

「ええと」

 念のため、道まで出てみる。左右両側を見るが、何処にも居ない。

 幻かとも思ったが、ハンカチは確かになくなっている。

 不思議な話だ。そう思った。不気味さは感じない、あの笑顔のせいだろうか。

 もう一度首をかしげると、ナタリーはエレベーターに乗り込んだ。

(不思議な人)

 それが、二度目の印象。

 

 

 

 

 

 

 〜Interlude in〜

 ジョージ・ローデスは獲物を追っていた。

(親父を狙う不届き物が!)

 不届きなネズミを追い詰めた。偉大な魔術師であり、父親でもあるジョナサンを狙った殺し屋だ。

「はっ、はっ」

 前を走る獲物の息は荒い、足はもつれ、今にも転びそうだ。

 

 

 ――――――馬鹿な奴だ。一人でローデス一門に挑むとは。
 

 


 足を速める。

 接近する靴音に気がついたのか、恐怖にゆがむ顔で、獲物は後ろを振り返った。

「く、くそっ!」

 もはや魔術も使えないほどに混乱しているのか、男は何も仕掛けずただ走って逃げるだけだ。

「は、ははは!」

 男の走る道筋には人を動員して通路をふさいだ。そうしてこの先は、右に曲がって行き止まり。

 ジョージは、誘導がうまく行った事に頬を緩めた。

(―――他の奴らに手柄は渡さない)

 その思いが、兄弟に対する連絡を怠らせた。

 獲物が右に曲がる、勝利と狩の成功を確信して角を伺うと―――

「―――嘘だろ?」

 ―――其処にはただ、誰も居ない路地裏が広がっていた。

 この路地には空が無い。

 張り出したビルが、四角い処刑場を作っているだけ。逃げ場など無い筈なのに男の姿は無かった。

 どん詰まりにあるのはとっくに潰れたバーだけで、その入り口は封鎖されて久しいのだ。

 近付いてみても、其処に逃げ込んだ形跡は無い。

 おかしな事だ、しきりに首をかしげながら、辺りを確かめる。

 その時、角の方で何かが動いた。だが、ジョージの視界には入らない。

 先ほどまでの狼狽は演技か嘘か。

 這い上がった壁から、潰れたバーの看板に身を移し、ソイツは機会を待っていた。

 ―――頃合良し。

 男は片手で看板にぶら下がると、そのまま狙いを定め―――引き金を引いた。
                                   
「嘘だろ?」

 悲しげに小さく呟く。

 それがジョージ・ローデスの最後の言葉になった。

 


 自身が狙われている事を、ジョナサン・ローデスは聞いていた。

(だが、恐れる事は無い)

 喩えそれが最強と言われる魔法使いだとしても、蒼崎の次女でも無い限り自身の攻性魔術に負けなど無い。

 そんな自負があった。

 その上、この町には四人、自分の息子である弟子が居る。封印指定の執行者でも、容易くは自分を捕縛できないだろう。

「親父―――師匠!」

「何じゃ騒々しい!」

 故にこの時も―――

 

 

「ジョージ兄が―――殺されました」

 


 ―――こんな事を言われるとは、思っても居なかった。

 


「ジョージ……」

 ジョナサン老魔術師は、知らせを聞くとその脚で殺害現場に向かった。

「おお、なんという―――」

 魔術刻印を受け継がせた息子だ、言わば、一番の財産が真っ先に失われたのだ。

 何もかもが崩れ落ちていくような錯覚を、老人は感じた。

「……死因は?」

「後頭部の銃創です、おそらくは、即死かと」

「銃―――だと?」

「はい」

(そんな馬鹿な話があってたまるか)

(銃を使う魔術師など、聞いた事が無い)

(銃を使う魔術師など―――いや、話には聞いていたか?)

 はた、と。ジョナサンは一つの噂を思い出した。

 〜Interlude out〜

 

 

 

 

 

 


 三度目の偶然は、必然と言って良いだろうか。

「こんばんは」

 声を掛けられたのは行き付けのバーで。

「あら、この前の」

 この間とは打って変わった御洒落さで。

「ハンカチ、返しに来ました」

 気品すら漂うしぐさ。

「いいって言ったのに」

 そのくせ、何処か隙のある笑顔。

「お礼です、此処を奢らせてくれませんか?」

「いいわ」

「それじゃあ」

 デートの誘いは単純なくせに、其処からの手の込みようは一流のホスト。

 徐々に印象を変えていく男に、ナタリーは興味を持った。

 


 隣に座った男が、驚いたように眉を上げる。

「良いものを着ているんだね、リナ・ドレッサーの仕立てかな?」

「……判るの?」

(仕立ての事ぐらいしかわからないと高をくくっていたのに……)

 リナ・ドレッサーは、名前こそあまり売れていないが、彼女の愛用の職人だ。カジュアルスーツのオーダーを請け負っている。

 はっきり言って、世間にはあまり出回っていない。

 それを一目で見抜いたのか、この男は。

 うーん、実はね。と、軽く笑うと男は言った。

「知り合いに職人が居てね、リナ・ドレッサーってメーカーなんだ」

 ……良く見れば、男のコートは彼の仕立てだ。

「趣味が合うわね」

「みたいだね」

 ウィスキーのグラスに手を伸ばす。

「あ、ちょっと待って」

「何?」

 一口舐めたところで、声を掛けられた。いぶかしげに男を見るナタリーに、悪戯っぽく微笑み返す。

 ひょい、ひょいと、男がひょうきんにグラスに向けて手を翳した。

「何それ?」

「おまじない」

(……ひょっとしたら、ただの変な奴かも)

 そう思いながらグラスに口をつけ―――ぶっ飛んだ。

「え、嘘、これ―――!?」

 ジャックダニエルの12年を飲んでいた筈。なのに、この深みはいったいどうした事か。

「嘘―――」

 こんな深い味わいのウィスキーは飲んだ事が無い。

 我を忘れて、ナタリーはグラスを干した。

 

 

「―――貴方何者?」

「僕? 魔法使いさ―――」

 

 

 真面目に答える気が無いのか、それとも答えようの無い事なのか。

「ちょっとそいつに本気を出させただけだよ。君相手に手を抜くとは何事かー。って」

「なにそれ、意味わかんないわよ」

 ボトルを取り上げると、同じように男は手を翳す。注がれたソレは、飲めば飲むほどに甘くなるような心地にさせてくれた。

(―――確かに。このお酒が本気を出したらこんな感じなのかも知れない)

 鮮やかで透き通るようなスモーキーフレーバーの向こうに、ナッツのような濃厚で力強い味わい。

「こんなの初めて……」

「そう?」

 男の瞳にちらちらと踊る色は、いったい何なのか。

 それが知りたくなって、ナタリーは深みに足を向けた。

「ナタリーよ」

「―――キリツグだ」


 余計な事を言うならば、ベッドの彼は―――激しかった。

〜To be continue.〜









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